【縦読み】
ライブ当日の昼、真宙のスマートフォンにはまた父からメッセージが来ていた。
『今夜、少し話せるか』
『来月の件もある』
短い文面。真宙は開いて、既読だけつけて、そのまま画面を閉じた。
返事をしないことに罪悪感がないわけではない。
けれど今夜、父と話したら、たぶん音の手前にあるものを全部、説明しなければならなくなる。
どうしてまだ続けるのか。
どうして研究のほうへ戻らないのか。
どうしてそんな不安定な場所に立っていたいのか。
答えはあるようで、ひとつにまとまらない。
まとまらないものを、父の前でうまく言える気がしなかった。
だから今夜は、未読にはしないまま返事はせず置いておくことにした。
逃げているのかもしれない。
でも、それでしか守れない時間も、ある。
*
会場は地下にあった。
階段を下りる前から、扉の向こうで低音がかすかに響いている。街の音とは違う、閉じた場所に溜まる種類の振動だった。
ソラは入り口の前で一度だけ立ち止まる。
やっぱり帰ろうか、とほんの一瞬だけ思った。
地下へ続く細い階段と、扉の隙間から漏れる音。どちらも、自分には少しだけ遠すぎる世界に見える。
けれど、そこで引き返す前に、上から降りてくる足音があった。
「来た」
振り向くと、真宙が階段の途中に立っていた。
黒いシャツの上に薄いジャケット。片手にスマートフォン、もう片方の手には小さな透明袋。仕事帰りなのか、少しだけ疲れた顔をしているのに、その声だけはちゃんと落ち着いていた。
「……うん」
「来ないかと思った」
「ちょっとだけ、やめようかと思った」
正直に言うと、真宙はなぜか少し笑った。
「だろうな」
そこで彼は階段を二段ぶん下りてきて、ソラの目の高さより少し上のところで止まる。相変わらず、見上げる位置にいる。
「これ」
差し出されたのは、小さなミント色のケースだった。
「何」
「イヤープラグ。かわいいだろ」
言い方があまりにもさらっとしていて、ソラは一瞬きょとんとする。
手のひらに乗せると、ケースは予想より軽かった。中の耳栓はやわらかい半透明で、色もたしかに少し可愛い。
「……そんなの持ってるんだ」
新品のような気もする。
「一応。仕事でたまに現場行くし」
仕事、という言葉に、ソラは小さく頷くしかない。
「無理そうなら途中で出よ」
「ありがと」
そう言うと、真宙は少しだけ目を細めた。
「ん」
階段を下り、受付を抜けて中へ入る。
箱は小さかった。天井が低く、ステージとの距離も近い。まだ始まる前だからか、客の話し声と機材のチェック音が交じって、空気は思ったほど重くない。
それでもソラは無意識に、左耳をかばうように少しだけ肩を上げた。
その動きを、真宙は見ていたらしい。
「こっち」
そう言って、スピーカーから少し遠い壁際へソラを連れていく。
人の流れが増えても押されにくい位置で、しかもステージはちゃんと見える。
自分がソラの左側に立つ。
あまりにも自然だったので、ソラはすぐには気づかなかった。
気づいてから、何も言えなくなる。
守られている、なんて大袈裟な言葉を使いたいわけではない。
昔からそうだっただろうか。
いや、たぶん今のほうが少しだけ正確だ。
照明が落ち、最初の音が鳴る。
低音が胸へ届く。空気が少し震える。ソラはイヤープラグを確かめるみたいに指先で触れた。音はちゃんと聞こえるのに、角だけがやわらいでいる。
不思議だった。
音楽は、こんなふうにも近づけるのだ。
轟音ではなく、壁でもなく、ただ体の輪郭を少しずつ揺らしてくるものとして。
ステージの上では若いバンドが一曲目を始めていた。上手いとも下手とも言い切れない、まっすぐな音。
ボーカルの声が少し掠れ、ギターが時々前のめりになり、それでもサビに入ると全部がひとつの方向へ走っていく。
ソラは知らないうちに、肩の力を少しだけ抜いていた。
真宙が横から、その変化を確かめるみたいに訊く。
「平気?」
ソラは頷く。
「……平気。思ったより」
「よかった」
その短い返事のあと、真宙はそれ以上何も言わなかった。
言わないまま、自分もステージを見る。
その横顔を見ていると、ソラはふと、昔、真宙が自室でギターを抱えていた午後のことを思い出した。
音のことを話しているときの顔は、その頃からあまり変わっていない。
変わったのは背の高さと、声の低さと、誰かをさりげなく気遣う手つきくらいだ。
そう考えて、胸の奥にまたあの不揃いなリズムが戻る。
二曲目が終わる頃、ソラは自分でも驚くほど自然に、ステージへ体を向けていた。
歌の途中で、ある一節がふいに耳へ残る。
言葉と音がぴたりと重なる瞬間。
それだけで、胸の奥のどこかが微かに熱を持つ。
そんな自分に驚いていると、曲間の拍手の向こうで、真宙が小さく笑った。
「今、ちょっと顔変わった」
「え」
「楽しいときの顔」
ソラはすぐには否定できなかった。
否定できないことが、悔しいような、うれしいような、どちらとも言えない。
「……うるさい」
ようやくそう返すと、真宙はますます可笑しそうに肩を揺らした。
その笑い方が昔に少し似ていて、ソラは目を逸らす。
音楽は、まだ終わっていないのかもしれない。
少なくとも今夜だけは、そう思ってしまってもいいような気がした。
*
ライブが終わる頃には、外の空気はすっかり夜になっていた。
地下から上がると、街の音が妙に薄く感じる。さっきまでの音の余韻がまだ身体の中にあるせいだろう。
ソラはケースに耳栓を戻しながら、少しだけ息を吐いた。
「大丈夫だった?」
真宙が訊く。
「うん。……思ってたより、ずっと」
「そっか」
その言い方は静かだった。勝ち誇るでもなく、安心しただけの声。
ソラはミント色のケースを見下ろす。
「これ、返す」
「いいよ」
「でも」
「持ってて」
短く言われて、ソラは顔を上げた。
真宙は少しだけ視線を逸らし、それから思い出したみたいにスマートフォンを取り出す。
「……あ、そうだ」
「何」
「連絡先」
たったそれだけの言葉なのに、ソラの胸が一拍遅れて大きく鳴る。
そうだ。まだ知らなかった。
今さらその事実が、妙にむき出しに見える。
「知らないままだと、次、誘えないし」
真宙はできるだけ普通の顔で言った。
普通の顔をしているくせに、少しだけ耳が赤い気がするのは、ソラの気のせいだろうか。
「次、って」
「いや、別に、ライブじゃなくても」
珍しく言い直しが雑だった。ソラはそれが少し可笑しくて、緊張の端がほどける。
「LIME?」
「LIMEでも、TelegraNでも」
「じゃあ……」
「了解」
画面を開いてコードを見せ合う。
たったそれだけの動作なのに、指先が少し落ち着かない。
交換が終わると、真宙の名前が連絡先の一覧に現れた。
久世真宙
その文字列が、ソラにはひどく新しかった。
毎日会っていた昔は必要なかった。
家の場所を知っていて、帰り道も知っていて、名前を呼べばよかったから。
今は、画面の中にちゃんと置かれなければ、会えないかもしれない。
その事実が少しだけ寂しくて、でも少しだけうれしい。
「送っとく」
真宙が言う。
すぐにソラのスマートフォンが震えた。
『今日はありがとう』
短いメッセージ。
画面を見たまま、ソラはなぜか少し笑ってしまう。
「どした」
「いや」
言えない。今まさに目の前にいるのに、もう文字で届くことが可笑しかったなんて。
「……すぐに送るんだ、って思って」
そう言うと、真宙は一瞬だけきょとんとしてから、遅れて笑った。
「送るだろ」
「そうだね」
夜風は少し冷たかった。
けれど、明日からも全部が同じままではないのだと、ソラは感じていた。
*
帰宅して、ソラはコートも脱ぎきらないまま机に向かった。
ノートは開いたところで止まっていた。
幼馴染だった彼は
気づいたら大人になっていた
背中の高さも
言葉の選び方も
そこへ、今夜の空気を思い出しながら、新しい一行を書き足す。
夜の歩き方も変わっていた
ライブの帰り道、音の余韻をまだ肩のあたりに乗せたまま歩いていた真宙の横顔が、駅前で見たときとは少しだけ違って見えた。
その一行を置いた瞬間、ソラはようやく、今日の夜がただ楽しかっただけではなかったのだと気づく。



このお話さ、読むとなんか心のどっかがギュってなる。なんでかな?
うまく言えなくて申し訳ないんだけれど😅